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毎年のことですが、1995.1.17 5:46

 

たくさんの人が犠牲になった中で、

神戸にいながら家族全員が無事だったこと。

襖が盾になってお父さんの大怪我が避けられたこと。

私をお腹の中に抱えた臨月のお母さんが無事でいてくれたこと。

臨月のお母さんと2歳の姉を気遣って助けてくれる人がたくさんいたこと。

避難できる場所と、避難できる足と、きれいな水があったこと。

お姉ちゃんにトラウマが残らなかったこと。

 

このどれか1つでも欠けていたら、私のいまの幸せも少し欠けていたと思う。

生まれてこれたことが奇跡とまでは言えなくても、

お母さんをはじめとして、これを乗り越えてくれた人が、

私の家族を助けてくれた人がいるから

なにも苦労を知らずに私は生まれてこれたと思う、これは間違いない。

 

 

中2の時の夏休みの課題で、”身近な人から貴重な体験談を聞いてそれを文字に起こせ”という「聞き書き」というものがあった。

当時はおじいちゃん・おばあちゃんに戦争体験を聞く人がほとんどで、私の周りの友達もみんなそうだったけど、私はお母さんからこの話を聞いた。

 

地震から数日間、メディアのヘリコプターがずっと上空を飛んでいて、それを見ながら「そんなことしてないでそこから食料か物資を下ろしてくれと思った」というお母さんが、心に残ってしょうがない。

 

どこかで災害が起こるとヘリが飛んで、「いま、街はこのような状況です!」とレポーターが切羽詰まったような声をだす。

テレビで私たちは街の状況を知って、「大変そうだ」と思う。

でもそんなことよりも、他にやるべきことがあるんじゃなかろうか。

その場の人たちはいま何が足りなくて、何に苦しんでいるのか。

切羽詰まってるのはレポーターではなくて街の人々であって。

 

 

そういうことを中2の私はあまり考えなかったけど、

20歳を超えてから思い出して、ようやく考える。